接着性の培養細胞を用いた実験では、細胞培養用の培地と平衡塩類溶液(バッファー)に加えて、細胞解離試薬が必要です。2022年に60周年を迎えたGibco™ブランドは、細胞培養用の培地や血清、サプリメント、各種バッファーなどとともに、細胞の性質や実験の目的に合わせて数々の細胞解離試薬を提供しています。Gibco60周年の特集Webサイトにて、さまざまな特集記事や細胞実験に役立つハンドブックのリソースが集められているのでぜひお立ち寄りください(Gibco 60周年 | Thermo Fisher Scientific – JP)。また、基礎培地の組成に興味のある方は、関連記事のこちらをご参照ください(意外と知らない基礎培地の世界)。
数ある細胞解離試薬のなかで、最もよく使われているのがTrypsin-EDTA溶液です。Trypsin-EDTAが細胞培養実験に使われるようになったルーツを探ってみると、100年以上前に書かれた論文にたどり着きます。その論文では、細胞の塊である組織をTrypsin(EDTAは含まない)で処理して得られた細胞を培養し、さらにTrypsinで解離した細胞を継代培養したことが記述されています。細胞培養へのTrypsinの応用は、現在まで受け継がれている接着細胞の培養の始まりと言っても過言ではありません。今回は記事を2回に分けて、TrypsinやEDTAが細胞培養の世界に登場した論文を探索し、Trypsin-EDTAによる接着細胞の継代法のルーツを探ります。前編では、Trypsin-EDTAを含めたさまざまな細胞解離試薬を確認した後、Trypsin初登場の論文を扱います。後編では、EDTA初登場およびTrypsinとEDTAの混合液が培養細胞に初めて使われた論文を扱います。さらに、TrypsinやEDTAと関係が深い細胞接着分子であるカドヘリンを発見した竹市雅敏博士らの論文についても触れたいと考えています。
▼こんな方におすすめです!
・細胞培養をこれから始める方
・Trypsin-EDTAについて知りたい方
・細胞培養の歴史に興味のある方
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Trypsin-EDTAとは
細胞解離試薬は、使用目的別にすると大きく3種類に分けることができます。
(1) 主として細胞の継代に使用する酵素系試薬
(2) 主として組織からの細胞の単離に使用する酵素系試薬
(3) 非酵素的に細胞を単離するキレート含有平衡塩類溶液
本記事では、細胞培養実験を行う多くの研究者にとってなじみ深い(1)の中で、スタンダードと言えるTrypsin-EDTAを扱います。その他の試薬については、本記事の最後でご紹介するので、興味のある方はご確認ください。
Trypsin-EDTAは、その名の通りTrypsinとEDTA(ethylenediaminetetraacetic acid:エチレンジアミン四酢酸)の混合物であり、PBSなどのバッファーに溶かした状態で使用されます。Trypsinは小腸に分泌されて消化吸収に関わる膵臓由来のタンパク質分解酵素です。当社が販売しているトリプシンは主にブタの膵臓から抽出されたものです。Trypsinは、タンパク質のアルギニンやリシンのカルボニル側のペプチド結合を選択的に切断します。Trypsin自身がこれらのアミノ酸を持つタンパク質であるため、中長期の冷蔵保存や室温以上の温度帯での放置によって自己分解して活性が徐々に低下します。一般的に、Trypsinは0.05~0.25 %の濃度で使用され、細胞表面の細胞接着分子を分解することによって細胞を解離させます。Trypsinの作用を停止させる際は、FBS(fetal bovine serum;ウシ胎児血清)添加済みの完全培地を用います。これは、FBSに含まれるTrypsin inhibitorの効果を期待しての操作です。そのため、無血清培地では十分な効果を得られず、細胞を痛めてしまう場合があります。無血清培地を用いる際には、Trypsin inhibitorを別途添加することによって対応することができます。当社のTrypsin inhibitor製品は、記事の最後でまとめてご紹介します。
細胞培養実験にTrypsin登場
細胞培養実験に初めてTrypsinが使われたのは、1916年に発表されたPeyton Rousらの実験だと言われています。この論文はリンク先から無料でダウンロードできるので、興味のある方は原文をご確認ください。
[参考文献1] Rous & Jones (1916) “A method for obtaining suspensions of living cells from the fixed tissues, and for the plating out of individual cells.” The Journal of Experimental Medicine, 23(4):549-55 (PMID: 19868005)
なお、Rousの名は、腫瘍形成を促すウイルスとして初めて記述された「ラウス肉腫ウイルス」に残っています。Rousはこのウイルスの発見の業績で1966年にノーベル生理学・医学賞を受賞しています(Peyton Rous – Facts (nobelprize.org))。
RousらによるTrypsinの実験の内容に入る前に、培養実験について少し補足させてください。脊椎動物を扱う生物学者は、細胞、組織(1種類または少数種類の細胞集団の機能単位)、臓器・器官(複数の組織の集合体)、個体(胎仔など)の培養方法の開発に長年挑戦してきました。一般的には、サンプルが立体化するほど、サンプルサイズが大きくなるほど、健全に培養することが困難になることが知られています。
本記事で扱うRousらの研究以前は、培養実験といえば組織培養(Tissue culture)のことを指していました。これは、当時の研究者は組織から細胞を単離する術を持たなかったため、培養サンプルとして準備できる最小単位が、一部を除いて、解剖学的な手技で得られた組織片だったからだと考えられます。現在でも、いくつかのメーカーの細胞培養用のディッシュの製品名が”Tissue culture dish”となっているのは、この歴史的経緯によるものと思われます。培養サンプルの一部の例外とは、もともと単一の細胞として生体内に存在している血球系の細胞や、精子などです。多細胞生物を構成するほとんどの細胞は周囲の細胞と接着して存在しています。Trypsinによって細胞の単離・継代が可能であることを示したRousらの研究は、培養できる細胞の種類を劇的に増やすきっかけとなったと言えます。なお、組織培養の試みは1800年代終盤に始まっていたとされており、細胞シート、オルガノイド、胎仔培養法など、現在でも挑戦的な研究が続けられている分野につながっています。
補足はこのくらいにして、Rousらの論文に戻ります。
Methodの章は、主役であるTrypsin溶液の調製から始まります。Trypsin粉末を3社から入手し、抽出方法の違いに由来する不純物について検討して1社の製品を選択し、さらに精製した後、バッファーに溶かしています。また、細胞を殺さずに処理できるTrypsin濃度も調べています。RousらはバッファーとしてLocke’s Solution(Ringer’s Solutionの改良版)を用いています。その構成成分は、塩化ナトリウム(NaCl)、塩化カリウム(KCl)、リン酸水素ナトリウム(NaH2PO4)、塩化カルシウム(CaCl2)、そして炭酸水素ナトリウム(NaHCO3)です。接着細胞の培養経験者ならば、このバッファーの組成に引っかかると思います。その引っかかりについては後述します。
樹立された株細胞の培養と区別して、組織から取り出した細胞を培養することを初代培養と呼びます。現在では、摘出した組織から細胞を直接単離してディッシュなどに播種する手法が一般的です。一方この論文では、採取した多数の組織片をペトリディッシュでしばらく培養するという、組織片の修復ステップを設定しています。本文からは読み取りづらいのですが、ディッシュに貼りついた組織片の周囲から細胞が生え出す現象を”修復”の指標としたようです。論文のタイトルにある”fixed tissue”は、この”修復された組織片”を指していると思われます。筆者と同様、ホルマリンなどによる”固定”をイメージした方もいると思いますが、固定後の細胞を培養することは現代でも不可能です。この”修復”ステップに用いた培養液は、血漿とLocke’s Solutionを1:3で混合した溶液です。Rousらはこの溶液が多くの組織に適しているとコメントしています。なお、血漿を採取した動物種については記述がありません。培地を使えばいいのにと考えた方もおられると思います。しかし、現在の研究者が使っている基礎培地の原型が発明されたのは、この論文の発表から30年以上も先なのです。基礎培地の開発の歴史に興味がある方は、関連記事のこちらをご参照ください(意外と知らない基礎培地の世界)。
さて、37℃に温めたTrypsin溶液を”修復”された組織に加えてしばらくインキュベートし、ピペッティングによって組織を破砕した後、滅菌ガーゼでろ過して細胞懸濁液を回収しています。Rousらは、ほぼ全ての細胞が生きていたとコメントしています。遠心して得た細胞を前述の培養液で懸濁し、ペトリディッシュに播種して培養しました。論文には、組織片から生え出した細胞の写真や、培養後の細胞のスケッチ・写真が掲載されています。位相差顕微鏡が無い時代に、どのようにして写真を撮影したのかにも興味があるのですが、残念ながら写真撮影に関する記述はありません(位相差顕微鏡が発明されたのは1932年、製品化は1943年とされている)。
Rousらは、ラットとニワトリの胎仔組織や腫瘍、若いラットの組織を用いて、Trypsinによる細胞の取得に成功したと記述しています。結合組織の細胞、内皮細胞(?)、脈絡膜の細胞、肉腫細胞、脾臓組織の細胞で試したそうです(注:本文に”(?)”と記述)。そして、Rousらが記述した次の文章も重要な指摘です。「Sheets of growing cells (epithelium) are not readily broken up. Whether individual epithelial cells can be liberated in this way is a yet uncertain.」要約すれば、「Trypsin処理によって上皮組織を分散させて細胞を得られるかどうかはまだわからない」ということでしょう。100年後に生きている私たちは、この疑問に対するヒントを知っています。すなわち、この実験に用いられたTrypsin溶液に含まれるカルシウムイオンを除去することです。これが、上述したバッファー組成への引っかかりに対する回答です。
Trypsinを使って細胞を継代する
驚いたことに、同論文でRousらは、組織から細胞の取得だけでなく、培養細胞の継代にもTrypsinを応用できることまで報告しています。RousらはTrypsinを用いることにより、ニワトリの脈絡膜から得た初代培養細胞を少なくとも2回継代できることを示しています。そして、解離させた細胞を播種するとまもなく順調に増殖し、その間は細胞が正常である(細胞の形態を指標としていると思われる)が、24時間ないしは48時間後には異常な細胞が出現すると記述しています。この観察から、Rousらは少なくとも48時間以内に細胞を継代すべきであることを提案しています。これは、現在の細胞培養実験の標準的な技法のひとつである、細胞がオーバーコンフルエントに達する前に継代することへの史上初の注意喚起だと思われます。
論文の最後の章である「Technical Difficulties」の章で、Rousらがこの手法を確立する過程で工夫した点や開発した道具など(培養操作を行う空間づくりや遠心チューブ)について詳しく記載されています。抗生物質が存在していない時代ですから、わずかなコンタミネーションが一連の培養を壊滅させたことでしょう(最初の抗生物質ペニシリンの発表は1929年)。現在では簡単に入手できる実験器具を手作りしている過程を垣間見ることができ、まさに開拓者の論文であることを感じさせます。
以上、前編では、Trypsinを細胞培養実験に初めて応用した論文をご紹介しました。後編では、EDTAや、Trypsin-EDTAの初登場、そして、細胞接着分子カドヘリンの発見に関する論文を取り上げたいと思います。なお、当社で販売している細胞解離試薬を以下でまとめましたので、ご参考にしてください。
タイプ別細胞解離試薬のご紹介
(1) 主として細胞の継代に使用する酵素系試薬
■Gibco™ Trypsin-EDTAシリーズ(広範囲の培養細胞に適用)
Trypsin、Trypsin EDTA
■Gibco™ TrypLEシリーズ(広範囲の培養細胞に適用)
TrypLE ExpressおよびTrypLE Select
■Gibco™ StemPro™ Accutase™シリーズ(幹細胞・初代細胞等に適用)
StemPro Accutase
TrypLEシリーズは、Trypsin-EDTAの上位互換と言える試薬です。Trypsin-EDTAの代替品として使用できるほか、Animal origin freeなど、臨床研究への展開にも考慮された製品です。StemPro Accutaseシリーズは、ヒトES細胞などの幹細胞や初代培養細胞などの敏感な細胞の解離用として使用できる製品です。
(2) 主として組織からの細胞の単離に使用する酵素系試薬
■Collagenaseシリーズ
Gibco™ Collagenase Type I(Collagenase, Type I, powder )
Gibco™ Collagenase Type II(Collagenase, Type II, powder )
Gibco™ Collagenase Type IV(Collagenase, Type IV, powder )
■Gibco™ Dispase II(Dispase II, powder )
■Gibco™ Trypsin(Trypsin (1:250), powder )
(3) 非酵素的に細胞を単離するキレート含有平衡塩類溶液
■Gibco™ Cell Dissociation Buffer, enzyme-free, PBS
■Gibco™ Cell Dissociation Buffer, enzyme-free, Hanks’ Balanced Salt Solution
(Dissociation of Cells from Culture Vessels with Enzyme-free Cell Dissociation Buffers | Thermo Fisher Scientific – JP)
■Gibco™ Versene Solution (thermofisher.com)
Gibco™ Cell Dissociation BufferはEDTAを含有する平衡塩類溶液であり、PBSベースとHBSSベースの製品を販売しています。Trypsinのようなタンパク質分解酵素の活性ではなく、EDTAのキレート作用で細胞接着を弱めて接着細胞を解離させます。そのため、細胞表面タンパク質を保持したままの細胞を取得できるので、フローサイトメトリーや免疫染色などによる細胞表面分子の解析に適しています。一方、細胞解離作用は穏やかなため、Hela細胞やNIH 3T3細胞など、接着力が比較的弱い細胞にのみ適用できます。また、細胞の継代用としてVersene SolutionというEDTA溶液も販売されています。
(4) Trypsin inhibitor製品
■Gibco™ Defined Trypsin Inhibitor(Defined Trypsin Inhibitor )
■Gibco™ Soybean Trypsin Inhibitor, powder(Soybean Trypsin Inhibitor, powder )
■Gibco™ Trypsin Neutralizer Solution(Trypsin Neutralizer Solution )
まとめ
・Trypsin-EDTAをはじめ、さまざまなタイプの細胞解離薬があります。
・1916年、組織から細胞を単離して培養、継代する目的で初めてTrypsinが使われました。
・培養実験へのTrypsinの応用は、接着細胞の培養実験の可能性を大きく広げました。
3D細胞培養&解析ハンドブック(英語版)無料ダウンロード
スフェロイド・オルガノイドなどの3D細胞培養アプリケーションについてのハンドブックです。3D培養に使用される細胞種から、マトリックス(足場材料)や培地とサプリメント、画像解析の手法や疾患モデル、生理学的解析までを広くカバーした内容になっています。2Dモデルから3Dモデルへの移行や3Dモデルのさらなる改良に是非お役立てください。
【無料ダウンロード】Gibco細胞培養基礎ハンドブック
細胞培養に関する基礎情報を解説したハンドブックをご用意しています(日本語版、約100ページ)。PDFファイルのダウンロードをご希望の方は、下記ボタンよりお申し込みください。
研究用にのみ使用できます。診断目的およびその手続き上での使用はできません。