Dulbecco’s PBS(DPBS)は、1954年にDulbeccoらによって発表された生理的塩類溶液です。細胞や組織の洗浄液やトリプシンの溶媒として開発されました。2022年に60周年を迎えたGibco™ ブランドのDPBSは、世界中の研究者にご愛用いただいています。DPBSはPBSの改良版と捉えられがちですが、関連記事(毎日使うからこそ見直したいPBSのレシピ)で確認したように、一口にPBSといっても、レシピによってその組成は大きく異なっています。Dulbeccoらの論文を確認すると、PBSとDPBSの関連についての記述は見つかりません。また実のところ、市販製品やMolecular CloningのPBSのレシピの初出ははっきりしないとされています。これらのレシピに関する情報をお持ちの方がいらっしゃいましたら、当記事の最下部のお問い合わせフォームからご一報いただけますと幸いです。当記事では、初出が明らかなDPBSの組成のルーツを調査し、Dulbeccoらが新たな生理的塩類溶液を開発した意味を考察します。
▼こんな方におすすめです!
・細胞培養や組織培養をこれから始める方
・細胞培養や組織培養を実施している方
代表的な生理的塩類溶液の組成
1954年のDulbeccoらの論文では、2種類の生理的塩類溶液を目的別に使い分けています。
[参考文献1]
Dulbecco R & Vogt M (1954) “Plaque formation and isolation of pure lines with poliomyelitis viruses.” J. Exp. Med. 99(2) 167-82 (PMID: 13130792)
1つ目は、組織の洗浄やトリプシン処理用としてのPhosphate-Buffered Saline(論文中ではPBSと記載。後にDulbecco’s PBS=DPBSと呼ばれる)です。オリジナルのDPBSにはCaCl2とMgCl2が含まれています。ご存じのように、CaCl2とMgCl2はトリプシンによる細胞の分散を阻害します。そのため現在までに、CaCl2とMgCl2が除かれたレシピが広まったと推察されます(関連記事:細胞の培養と継代のルーツを探ってみた件(前編)(後編))。
2つ目は、細胞培養液の基礎溶液として使用されたEarle’s saline(=Earle’s Balanced Salt Solution、EBSS)です。EBSSは、マウスの線維芽細胞の培養時の洗浄や培養液の基礎溶液として、1943年にEarleが発表した生理的塩類溶液です。当時は、合成基礎培地の開発が盛んになる直前の時期でした。そのため、動物(ニワトリなど)から採取した血清などをEBSSなどの生理的塩類溶液で希釈することで作成した溶液が培養液として使用されていました(関連記事:意外と知らない基礎培地の世界、史上初の合成基礎培地~必須栄養素の解明を目指して)。
当社は、オリジナルの塩類組成を踏襲したEBSS(製品番号24010043、Phenol red含有)と、CaCl2とMgSO₄が除かれたEBSS(製品番号14155063)を販売しています。DPBSの組成のルーツを探るため、DPBSやEBSSとともに、当時の細胞培養、組織培養実験で使用されていた生理的塩類溶液の組成の一覧表を作成しました(Table 1)。
[参考文献2]
Earle WR (1943) “Production of Malignancy in Vitro. IV. The Mouse Fibroblast Cultures and Changes Seen in the Living Cells.” J. Natl. Cancer Inst. 4(2) 165-212
[参考文献3]
Cameron G (1950) “CHAPTER V – PHYSIOLOGICAL SOLUTIONS.” Tissue Culture Technique (Second Edition Revised and Enlarged) 34-40
近代的な生理的塩類溶液の起源は、1910年に発表されたTyrode’s solutionだと言われています。これは、Na+-K+とCa2+-Mg2+のイオン平衡、pH緩衝のためのリン酸イオンと炭酸イオン、エネルギー補給のためのグルコースで構成されています。Table 1にまとめた組成から、後年に開発された生理的塩類溶液の組成はTyrodeの組成の影響を受けていることが伺えます。Tyrode’s solutionとEBSSの組成を比較すると、EBSSのNaClが減り、NaHCO3が増えているのが目に留まります。動物細胞用の生理的塩類溶液において、最も高濃度で含まれているNa+が溶液の浸透圧の大部分を決定しています。そのため、Na+の濃度は意図なく増減させることはできないはずなのですが、Table 1の組成からはEarleの意図が分かりにくいです。そこで、濃度表示をモル濃度から質量濃度に変更してみると、その意図が推察できます。Tyrode’s solutionのNaClとNaHCO3の質量濃度はそれぞれ 8.0 g/Lと1.0 g/Lです。一方、EBSSは6.8 g/Lと2.2 g/Lです。このことから、EarleはNaHCO3を増やした分だけNaClの質量を減らして調節したと推察されます。残念ながら、参考文献2にこのような調節をした経緯についての記述が無いため、この推察が正しいかどうかは不明です。
実は、Earleの塩類組成はEBSSを使用していない研究者にとっても身近な組成です。NaHCO3の増量は、5% CO2環境下でのpH緩衝作用の強化を狙ったものだと思われます。CO2インキュベーターでの培養を想定している基礎培地、例えばBasal Medium Eagle(BME、製品番号21010046)、その改変型であるMEM(製品番号11095080)やMEM alpha(製品番号12561072)にはEarleの塩類組成が採用されています。
DPBSが開発された経緯の考察
PubMedで検索したところ、1954年以前のDulbeccoの論文で動物細胞を培養しているのは1952年に発表された1件(参考文献4)のみです。この論文では、組織の洗浄やトリプシン処理、培養液の基礎溶液としての全ての用途にEBSSが用いられています。
[参考文献4]
Dulbecco R (1952) “Production of Plaques in Monolayer Tissue Cultures by Single Particles of an Animal Virus.” Proc. Natl. Acad. Sci. USA. 38(8) 747-52 (PMID: 16589172)
このことは、Dulbeccoが1952年から1954年の間に、組織の洗浄やトリプシン処理の用途としてより適切な塩類組成を持つ溶液としてDPBSを考案した可能性を示唆しています。上述のように、1954年の論文にはDPBSを考案した経緯についての記述が無いため、Table 1の組成表から考察します。
EBSSからDPBSへの移行の最大のポイントは、NaHCO3による重炭酸緩衝系を捨てて、KH2PO4とNa2HPO4によるリン酸緩衝系に絞った点です。重炭酸緩衝系は5% CO2環境下で中性付近のpH緩衝作用を発揮しますが、大気中(低CO2濃度環境)では培地からCO2が失われてアルカリ性に偏ります。一方、リン酸緩衝系は大気中でpH緩衝作用を発揮しますが、細胞増殖によってリン酸が消費されて緩衝作用が低下するため、培地の緩衝系としては不安があります。これらのことから、Dulbeccoは、培地の基礎溶液としては重炭酸緩衝系をもつEBSSを採用し、大気中での操作となる組織の洗浄やトリプシン処理用の塩類溶液としてはリン酸緩衝系のみのDPBSを採用したと考えることができます。
史上初のトリプシン処理による細胞培養は、1916年に発表されたRousの実験だとされています。このときに使用されたLocke’s SolutionにはNaHCO3が含まれており、トリプシン溶液と培養液の双方に使われました(関連記事:細胞の培養と継代のルーツを探ってみた件(前編))。そして、これに続く多くの培養実験では、Table 1に示されているNaHCO3含有の塩類溶液が主に使われてきました。Dulbeccoらの1954年の論文はDPBSの初出文献として有名ですが、大気中で使用する塩類溶液と5% CO2環境下で使用する培養液の塩類組成を明確に区別した点でも、大きな影響を後世に与えたと言えるのかもしれません。
まとめ
- DPBS発表以前のNaHCO3含有の生理的塩類溶液は、用途の区別なく、細胞・組織培養実験全般に使用されました。
- DPBSの最大の特徴は、NaHCO3不含である点だと考えられます。
- DulbeccoらによるDPBSの開発は、用途別に生理的塩類溶液を使い分けることを提案したという点でも、後世に大きな影響を与えたとみることができます。
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